ステイゴールド、50戦目に名前へ追いついた馬

名前をもらってから、追いつくまでに、50戦かかった。

1999年12月26日、中山競馬場のステイゴールド
ステイゴールド(1999年12月26日・中山競馬場、第44回有馬記念) / Goki / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

2001年12月16日、香港。沙田競馬場の香港ヴァーズは、淡々とした流れで進んでいた。

日本から来た7歳の牡馬は、後方から6番手にいた。3コーナー、エクラールが早めに動いて抜け出しにかかる。ふつうなら、ここで追いかけないと届かない。

武豊は追わなかった。中団のまま、じっとしている。

直線に入って、ようやく馬群を抜けた。2番手まで上がる。前のエクラールとの差は、まだある。しかも馬は右へ斜行しかけていて、それを直しながら追わなければならない。

ゴール板の上で、アタマだけ、出た。

7歳。50戦目。この馬が初めてGIを勝った瞬間だった。

名前は、ステイゴールド。その輝きのままでいて、という意味である。名前をもらってから、追いつくまでに、50戦かかった。

50戦7勝
28連敗(1997-2000)
GI・2着4回
GI初制覇は引退レース(2001 香港ヴァーズ)

ステイゴールドの記録

その輝きのままでいて

馬名は、映画『アウトサイダー』の印象的なセリフから取られている。「Stay gold」。詩人ロバート・フロストの詩句を引いた言葉で、見るもの全てが新鮮だった子供の時の心を忘れないで、という意味を持つ。

美しい名前である。

その名前を背負っていたのは、しかし、厩舎で最も扱いにくい馬の一頭だった。

調教助手の池江敏行は、この馬を「猛獣」と評している。「肉をやったら食うんじゃないかと思ったほど凶暴だった」。主戦を務めた熊沢重文の証言も似ている。「立つ、蹴る、噛むと悪さの連続」。乗るときには回し蹴りが飛んでくるかもしれず、噛まれるかもしれない。調教では、近付いてくる馬に立ち上がって威嚇した。

馬体は小さかった。もっとも軽いときで408キロ。父はサンデーサイレンス。同じ父を持つ馬たちが日本の芝を作り替えていく時代に、この小さな猛獣は、なかなか勝てなかった。

三つ勝って、止まった

デビューは1996年12月1日、阪神競馬場の新馬戦だった。3着である。

明けて1997年、熊沢重文を背に三つ勝った。5月11日、東京の芝2400メートル未勝利戦。6月7日、中京のすいれん賞。9月6日、札幌の阿寒湖特別。三歳の夏まで、順調に見えた。

同じ年の10月、京都新聞杯に出て、4着だった。

ここから、勝てなくなる。

次も、その次も、勝てない。年が明けても勝てない。二年目に入っても勝てない。

止まったのは、2000年5月である。

その間、28連敗。

2着7回、3着7回

28という数字だけを見ると、力の足りない馬の話に見える。ところが、中身がおかしい。

28連敗のあいだ、この馬は2着を7回、3着を7回している。負けた半分は、勝ち馬のすぐ後ろにいた。

しかも、勝てない相手の格が高い。GIでの最高着順は2着で、それを4回やっている。

1998年5月、天皇賞(春)。2着。

同年7月、宝塚記念。この日先頭を走っていたのはサイレンススズカだった。誰にも捕まらない逃げで、そのままゴールまで行ってしまう。追いかけて、届かなかったのがステイゴールドである。2着。

同年11月1日、天皇賞(秋)。またサイレンススズカがいた。ただしこの日は、レースの様相が途中で一変する。3コーナーで、先頭を走っていたスズカが競走を中止した。左前脚手根骨粉砕骨折だった。(あの日については、名馬物語「サイレンススズカ」に書いてある。)

そのレースを、オフサイドトラップが勝った。柴田善臣が乗っていた。

2着は、ステイゴールド。蛯名正義が乗って、1馬身1/4差だった。

翌1999年10月の天皇賞(秋)も、2着。

人は、この馬を「善戦マン」と呼んだ。「稀代のシルバー&ブロンズコレクター」とも言った。銀と銅ばかり集める男、という意味である。

呼び名には棘があった。けれど、そこには奇妙な親しみもあった。勝たないのに、この馬には人気があった。強いから応援されるのではない、別の回路が、確かに存在していた。

心を鬼にして

熊沢重文は、1997年2月からこの馬に乗っていた。気性難の小さな馬に、三年以上、乗り続けた。三勝させ、そのあと2着と3着を積み上げた。

2000年4月まで、主戦は熊沢だった。

同年5月の目黒記念で、鞍上が武豊に替わる。

決めたのは調教師の池江泰郎だった。その言葉が残っている。

「心を鬼にして、すべてをユタカ君に任そう」

心を鬼にして、と言うからには、鬼にしなければ決められないことだったのだろう。三年以上のあいだ、噛まれ、蹴られながら乗り続けた騎手を、勝てないまま降ろす。

2000年5月20日、東京競馬場。目黒記念、芝2500メートル、重馬場。

ステイゴールドは勝った。2着のマチカネキンノホシに1馬身1/4差。

重賞初制覇だった。そして、28連敗の終わりだった。

馬は、何も変わっていない。同じ猛獣で、同じ小さな体で、同じように走った。変わったのは人の側だけである。それでも、勝った。

こういう話は、誰も悪くないのに痛い。

誕生日のドバイ

2001年1月14日、京都。日経新春杯。藤田伸二が乗って、勝った。

そして3月24日、ドバイ。ナド・アルシバ競馬場のシーマクラシックに、武豊とともに出走する。

相手が違った。前年の覇者で、ヨーロッパでも指折りの強豪ファンタスティックライト。鞍上はランフランコ・デットーリである。

直線、ステイゴールドはドイツのシルヴァノと並んで伸びた。前には、すでに抜け出したファンタスティックライトがいる。届く距離ではないように見えた。

決勝写真が要った。

写真に映っていたのは、ステイゴールドの鼻先が、わずかに先にゴールラインを越えている瞬間だった。

日本産の日本調教馬が海外の重賞を勝ったのは、ハクチカラ、フジヤマケンザンに次いで史上3頭目である。サンデーサイレンス産駒の日本調教馬としては、これが初めての国外重賞勝利だった。

なお、この日は3月24日である。1994年3月24日生まれのこの馬にとって、7歳の誕生日にあたる日だった。

ひとつ、書いておかなければならない。このドバイシーマクラシックは、当時はUAEのG2である。大きな勝利ではあったが、GIではなかった。

この馬はまだ、GIを勝っていない。

一位入線、失格

2001年の京都大賞典で、ステイゴールドは一位で入線した。

騎乗していたのは後藤浩輝である。直線、ナリタトップロード(渡辺薫彦)と競り合うなかで左に斜行し、進路を妨害した。ナリタトップロードは落馬した。

審議のすえ、ステイゴールドは失格となった。繰り上がって1着になったのはテイエムオペラオーである。

記録の上では、この日の一位入線は残らなかった。

50戦のうち、勝ちとして数えられないゴール板通過が、ここに一つある。

50戦目

2001年12月16日、香港。沙田競馬場、香港ヴァーズ。

引退レースだった。50戦目である。

そして冒頭のとおり、この馬は後方から6番手にいて、エクラールが3コーナーから抜け出しにかかっても動かず、直線で馬群を抜き、右への斜行を直しながら、アタマ差だけ前に出た。

アタマ差。

この馬は、ずっと僅差で負けてきた。2着7回、3着7回。GIで2着4回。惜しい、を数えきれないほど繰り返した。

最後の一回だけ、その僅差が、自分の側に来た。

日本産の日本調教馬が国外の国際GIを勝ったのは、これが初めてだった。

引退式は、年が明けた2002年1月20日、京都競馬場で行われた。

勝てない馬が、愛された

ステイゴールドが走った時代を思い出すと、この馬の人気の理由が少し見えてくる。

同じ時期、競馬場にはサイレンススズカがいて、テイエムオペラオーがいた。強い馬は、強いという理由で支持を集める。当然のことである。

ステイゴールドは、そこに入れなかった。入れないまま、2着と3着を積んだ。

それでも、この馬の名前は覚えられた。「善戦マン」という、褒め言葉とも冷やかしともつかない呼び名で。

勝つところを見たいから応援するのではなく、勝てないところを何度も見てきたから応援する。そういう関係が、競走馬と人のあいだには成立しうる。ステイゴールドは、それを50戦かけて証明した。

そして、最後に勝った。

サンデーサイレンスと、ゴールデンサッシュ

父はサンデーサイレンス。母はゴールデンサッシュ、母父はディクタス。生まれは北海道の白老ファームである。

父の血は、この時代、日本の芝の真ん中にあった。同じ父から、次々と大物が出ていた。そのなかでステイゴールドは、小柄で、気性が激しく、なかなか勝ち切れない馬だった。

血統表の上では恵まれている。走ってみると、なかなか勝てない。

その落差が、この馬の五年間だった。

そして、父へ

2002年、ステイゴールドはブリーダーズ・スタリオン・ステーションで種牡馬になった。

ここから先は、彼自身の話ではなくなる。

ドリームジャーニーが朝日杯フューチュリティステークスと宝塚記念と有馬記念を勝った。オルフェーヴルが皐月賞、東京優駿、菊花賞、そして有馬記念を二度勝った。ゴールドシップが皐月賞、菊花賞、有馬記念、宝塚記念を二度、天皇賞春を勝った。ナカヤマフェスタが宝塚記念を勝った。

父が50戦かけて一つだけ手に入れたものを、息子たちは、まとめて持って帰ってきた。

2015年2月5日、ステイゴールドは21歳でその生涯を終えた。

受け継がれたもの

2002年1月20日、京都競馬場で行われたステイゴールドの引退式
ステイゴールド引退式(2002年1月20日・京都競馬場) / Topgun1997 / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

この馬の成績表を上から下まで見ると、ほとんどが負けである。50戦して、勝ったのは7回しかない。

けれど、その負けは、離された負けではなかった。2着が7回、3着が7回。GIで2着が4回。いつも、勝ち馬のすぐ後ろにいた。届いていないだけで、そこにいた。

「Stay gold」——その輝きのままでいて。

名前をもらったとき、この馬はまだ何も証明していなかった。そのあと28連敗した。善戦マンと呼ばれた。三年以上乗った騎手が、勝てないまま降ろされた。7歳になった。

そして50戦目、最後のレースで、アタマ差だけ前に出た。

輝きのままでいろ、という名前に、この馬は50戦かけて追いついた。追いついたその日に、走るのをやめた。

息子たちが、続きを走っている。

参考資料・画像クレジット

← 読み物一覧へ戻る