オルフェーヴル、栗毛の暴れ馬が二度見た金色の夢

ロンシャンの直線、残り200メートル。栗毛の馬体が抜け出した。だが、あと一完歩というところで、オルフェーヴルは内へ向かって首を振った。

2012年、凱旋門賞に挑んだころのオルフェーヴル
2012年、凱旋門賞に挑んだころのオルフェーヴル / Hide4307 / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

日本から来た三冠馬が、このままゴールへ向かえば、凱旋門賞は日本調教馬のものになる。スタンドの空気が、そう動きかけた。

だが、あと一完歩というところで、オルフェーヴルは内へ向かって首を振った。まっすぐ伸びるはずの脚が、斜めに逃げる。空いた隙間を、牝馬ソレミアが割ってくる。ゴール板を過ぎたとき、着差はクビだった。

フランス語で「金細工師」を意味する名を持つ馬が、金色のトロフィーまであと少しのところで、自分自身の気性に足を取られた。

オルフェーヴルという馬を語るとき、強さと危うさを切り離すことはできない。

21戦12勝
クラシック三冠(史上7頭目)
有馬記念2勝
凱旋門賞2着2回

オルフェーヴルの記録

新潟の芝、初勝利のあとに

2010年8月14日、オルフェーヴルは新潟の新馬戦でデビューした。

中団から直線で一気に伸び、出走メンバー最速の上がりで初勝利を挙げる。ここまでは、よくある新馬勝ちの記事だ。だが、この馬はゴールのあとが違った。パドックでは池江が加わっての二人曳きを余儀なくされ、ゴール後には鞍上の池添謙一を振り落として放馬。ウイナーズサークルでの記念撮影は中止になった。

2戦目の芙蓉ステークスはクビ差の2着。3戦目、初重賞の京王杯2歳ステークスでは、ゲート内で隣の馬を恋しがって鳴き、進んでは掛かり、10着に大敗した。幼さがそのまま結果に出た負け方だった。

この敗戦を受け、陣営は当面の目標だった朝日杯フューチュリティステークスを諦め、しがらきへ放牧に出す。集団から離し、1頭で調教する時間を増やした。自立心を養うためだった。京王杯の敗戦は、あとから振り返れば大きな分岐点になる。

スプリングステークスで見えたもの

年が明けても、もどかしいレースが続いた。シンザン記念2着、きさらぎ賞3着。どちらも直線だけの脚で迫りながら、前を捕まえきれない。

このころ、池江は鞍上の池添に「勝つのはダービーでいいから」と声をかけている。結果よりも、競馬を教えることに専念させるための言葉だった。

3月26日のスプリングステークスで、オルフェーヴルは重賞初制覇を飾る。大外から一気に差し切ったこの勝ち方に、池江は「かわすときの脚は兄のドリームジャーニーを見ているようだったね」と評した。もどかしい競馬の先に、ようやく形が見え始めていた。

皐月賞、震災の年に

2011年4月24日の皐月賞は、東日本大震災の影響で開催地が中山から東京へ移り、予定より1週遅れて行われた。

前哨戦を勝っていたにもかかわらず、オルフェーヴルの評価は高くなかった。単勝10.8倍、4番人気。だがレースでは不利とされる外枠を苦にせず、道中は折り合って中団やや後方に構え、最後の直線で馬群を割って先頭に立つと、1番人気のサダムパテックを3馬身引き離した。

一冠目。池添は「初めて府中の直線が短く感じた」と振り返っている。

不良馬場のダービー、二冠目

5月29日の東京優駿は、台風2号の影響で不良馬場となった。単勝3.0倍の1番人気に推されながらも、不確定要素の多いレースだった。

2011年、東京優駿(日本ダービー)のオルフェーヴル
2011年、東京優駿(日本ダービー)のオルフェーヴル / Wushi-En / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

道中は折り合いに専念し、第3コーナーで外へ持ち出そうとしたところ、逆に内へ差し込まれる形で馬群の真後ろに。直線入口では外から被せてきたナカヤマナイトと接触し、鞍上の池添がバランスを崩す。それでも手綱を引かず、わずかな隙間を見逃さずに抜け出し、ウインバリアシオンを1馬身4分の3差で振り切った。

新潟デビュー馬が日本ダービーを勝つのは、1984年のシンボリルドルフ以来27年ぶりだった。皇帝と呼ばれた三冠馬の記録に、新しい栗毛の馬体が並んだ。

菊花賞、そして親子二代の三冠調教師

秋、神戸新聞杯を単勝1.7倍の圧倒的支持で快勝。父・池江泰郎はこのレースを見て「こんなに楽に勝てるとは思わなかった」と目を細めている。

10月23日の菊花賞は、単勝1.4倍、支持率58.28パーセントという異例の一番人気。三冠がかかったレース前、緊張する池添に、池江は具体的な作戦ではなく「謙一とオルフェーヴルを信じている」とだけ伝えた。

レースは中団からじっくり脚をため、最後の直線で早めに先頭へ。最後方から追い込んできたウインバリアシオンを2馬身半差で退け、無敗ではないが史上7頭目、2005年のディープインパクト以来6年ぶりのクラシック三冠馬になった。

このとき、静かに歴史が動いていた。池江泰寿の父・池江泰郎は、2005年にディープインパクトで三冠を達成した調教師である。息子が別の暴れ馬で三冠を重ね、史上初めて親子で三冠トレーナーが誕生した。もし父が種牡馬入りしたばかりのディープインパクトへ送った種付けが実を結んでいたら――母オリエンタルアートは当時3度ディープインパクトと交配されたが、いずれも不受胎に終わり、4周期目にステイゴールドへ相手を替えて、ようやくオルフェーヴルが生まれた。父と子の三冠は、血の上でも紙一重のところでつながっていた。

ゴール後、オルフェーヴルはまた池添を振り落として放馬した。デビュー戦と同じ癖が、三冠達成の瞬間にも顔を出した。

有馬記念、雪の舞う戴冠式

三冠達成後、次走には菊花賞からの間隔を考え、12月25日の有馬記念を選んだ。古馬を相手にする初めての大舞台。この年引退を発表していたブエナビスタとの一戦としても注目された。

超スローペースの中、最後方付近の苦しい位置取りから、残り700メートル付近で大外を捲っていく。直線でトーセンジョーダンらを交わし、エイシンフラッシュやトゥザグローリーの追撃を4分の3馬身差で封じた。

ゴール板を駆け抜ける前後から、晴れていた中山競馬場に雪がちらつき始めた。表彰式は、幻想的な雪のなかで行われた。この年、8戦6勝。三冠に有馬記念を加えた四冠馬として、年度代表馬に選ばれている。

阪神大賞典、化け物と呼ばれた一戦

2012年、4歳初戦は阪神大賞典。凱旋門賞挑戦を見据え、池江は「有馬記念のようなウルトラC的な競馬はしないようにしよう。普通の競馬をしよう」と池添に話していた。だが、リフレッシュ明けのオルフェーヴルはパドックからイレ込み、大外枠発進という不安を抱えたままゲートに入った。

道中で引っ掛かり、我慢しきれずに先頭へ。2周目の第3コーナーで、ついにコーナーを曲がろうとせず外ラチぎりぎりまで直進して逸走した。池添が手綱を急激に引くと、故障を疑わせる勢いで後方3番手までズルズル後退する。

普通なら、そこで終わる競馬だった。

ところが内側に他馬を見つけると、オルフェーヴルは再びハミを取って加速し、大外から一気に捲って直線で先頭に並びかける。最後はギュスターヴクライにわずか半馬身差で交わされ、2着に敗れた。

「100メートルは余分に走っていた」と池添は振り返り、レース後には「化け物だと思う」と口にした。

ロスの大きさが、かえってこの馬の底知れなさを印象づけた一戦だった。逸走により、次走前には平地調教の再審査が課されることになる。

天皇賞春、生涯最低着順

再審査は無事に合格し、4月29日の天皇賞春に出走できることになった。単勝1.3倍の圧倒的1番人気。

しかしレースは見せ場なく終わる。直線で追い出しても伸びず、生涯最低着順となる11着に沈んだ。池添は「4、5回くらいつまずくような感じになった」と故障を疑うほどだったと明かし、池江も「返し馬が全然良い頃とは違いました」と振り返っている。のちに、中間に下痢を起こしていたことも明らかになった。

この敗戦を受け、池江は「この着順では凱旋門賞を目指すとは大きな声では言えない」と述べた。前年から掲げてきた欧州遠征の夢が、大きく揺らいだ瞬間だった。

宝塚記念、復活

立て直しのため、しがらきへ短期放牧。帰厩後も陣営は慎重な姿勢を崩さず、直前まで出走の明言を避けていた。それでも宝塚記念のファン投票では、2戦続けての不本意な結果にもかかわらず、7万2253票を集めて1位に選ばれた。

「1位の重みを感じています」と池江。ファンの後押しを受け、出走を決断する。

6月24日の宝塚記念、後方5番手から進み、第3コーナーでライバルたちが動いていくのを見送りながら、あえて位置を下げた。だが第4コーナーを回ると一気にスパート、ルーラーシップ以下を2馬身差抑えて優勝した。

勝利騎手インタビューは、検量室前ではなくスタンドの前で行われた。池添は涙を見せながら「ほんとにきつくて…ほんとに良かったなって思います」と語り、ファンには「1番人気でしたし、その期待に応えたいと思って一生懸命乗りました」と伝えた。

鞍上交代、酒に酔えなかった夜

7月、凱旋門賞への再挑戦が正式に発表された。同時に、これまで全レースに騎乗してきた池添から、凱旋門賞優勝経験を持つクリストフ・スミヨンへ乗り替わることも発表される。

池江はこの決断を「苦渋の選択だった」と語った。池添は当時の心境を、「いつもだったら絶対潰れてるくらいの量の酒を飲んでも全然酔えないくらい、本当にショックだった」と表現している。

デビュー戦からずっと背中にいた男が、世界でいちばん大きな舞台の手綱を、別の騎手に譲る。四年間のうち、もっとも静かで、もっとも重い場面だった。

凱旋門賞、二度目の夏

9月16日のフォワ賞をスミヨンとともに勝ち、いよいよ本番へ。10月7日の凱旋門賞は、大外枠から発走し、エプソムダービー馬キャメロットを抑えて単勝1番人気に支持された。

後方2番手からじっくり進め、最後の直線、大外から馬なりのまま前を捉える。残り約300メートルで先頭に立ち、後続をさらに突き放した。

そして、冒頭で描いたあの場面が来る。内ラチへ向かって急激に斜行し、失速。追いすがるソレミアにゴール前で差され、クビ差の2着に終わった。

レース後、池江は「日本の競走馬が世界のトップレベルにあることは事実だが、自分の技術が世界レベルになかった」と語った。スミヨンは「抜け出してから少しソラを使うようなところがあったかもしれない」とコメントしている。あと一完歩、あと一完歩だけ、この馬は自分自身を御しきれなかった。

ジャパンカップ、三冠馬同士の激突

帰国後、鞍上は池添に戻り、11月25日のジャパンカップへ。この年に牝馬三冠を制したジェンティルドンナが出走を表明し、28年ぶりとなる三冠馬同士の対決が実現した。凱旋門賞を制したソレミアも、日本での再戦のために遠征してきていた。

凱旋門賞からわずか中2週というコンディションの中、単勝2.0倍の1番人気で発走。直線で逃げるビートブラックを追い、突き放すかと思われた残り200メートル、進路をこじ開けようとしたジェンティルドンナと接触し、バランスを崩して失速する。そこから体勢を立て直して叩き合ったが、ハナ差の2着だった。

20分に及ぶ審議の末、着順はそのまま確定。池添は「あの判定はどうかと思います」と悔しさをにじませ、池江も「3回はぶつけられている」と語った。この年のGI勝利は宝塚記念の1勝のみだったが、凱旋門賞とジャパンカップ、二つの僅差の2着が、この馬の年を語るにはむしろふさわしかった。

産経大阪杯、そして喀血

2013年、5歳になったオルフェーヴルは産経大阪杯で始動し、単勝1.2倍の支持に応えて快勝する。

この年の宝塚記念には、ゴールドシップ、ジェンティルドンナ、天皇賞春馬フェノーメノが集う豪華な顔ぶれが予定され、大きな注目を集めていた。だが調整の過程で運動誘発性肺出血を発症し、レースを回避することになる。症状は軽く、十分な治療ができたことから、当初の予定通り3度目の欧州遠征は決行された。

凱旋門賞、最後の挑戦

9月15日のフォワ賞を3馬身差で快勝。スミヨンは「馬が大人に、クールになっていた」と気性面の成長を口にした。

10月6日の凱旋門賞には、日本からもう1頭、日本ダービー馬でニエル賞も制したキズナが参戦していた。単勝1番人気に支持されたオルフェーヴルは、中団の後方外目を追走し、直線で前へ進出を試みる。だが、無傷でここまで勝ち上がってきたトレヴの脚色がまさっていた。5馬身差、2年連続の2着。

池江は完敗を認めた。「精一杯やってきましたし、力は出し切った。それで負けたので勝った馬が強かったとしか言いようがない」。そして、こう続けた。「去年は一瞬開けることができてゴール寸前で閉じたという感じだったが、今年は扉に手をかけることすらできなかった」。

有馬記念、最後は最初の相棒と

12月22日、現役最後のレースに定めた有馬記念。ファン投票で1位に選ばれ、鞍上には歴戦のパートナー・池添が復帰した。

この日、単勝1.6倍の支持を集めるオルフェーヴルに対して、唯一まともに人気を分け合ったのが前年のクラシック二冠馬・ゴールドシップだった。同じステイゴールド産駒の一年後輩が、先輩の引退レースに主役級の存在感で駆けつけていた。

2013年有馬記念、オルフェーヴルの引退レース(3着はゴールドシップ)
2013年有馬記念、オルフェーヴルの引退レース(3着はゴールドシップ) / Nadaraikon / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

レースでは早めに先頭へ立つと、そのまま後続を突き放す。2着ウインバリアシオンに8馬身差、3着にはゴールドシップが入った。最後の直線、鞍上の池添が体を起こす余裕さえ見えた圧勝だった。

同日夜、中山競馬場では約6万人のファンが最終レースのあとも残り、引退式を見届けた。デビュー戦で池添を振り落とし、三冠達成の瞬間にも同じことをした馬が、最後は一番なめらかな形でゴールに戻ってきた。

ステイゴールドとメジロマックイーン、黄金配合の先に

父ステイゴールド、母父メジロマックイーン。競馬ファンのあいだで「黄金配合」と呼ばれた組み合わせから、オルフェーヴルは生まれた。

ステイゴールドは、現役時代に幾度も惜しい競馬を重ね、最後に香港で大きな勝利をつかんだ馬。メジロマックイーンは、長距離の王者として持続力を日本競馬に刻んだ馬。この血に共通するのは、軽さや素直さではなく、粘りと燃え方の濃さだった。

母オリエンタルアートは、白老ファームの配合計画では当初ディープインパクトと組み合わされる予定だった。だが3度の種付けはいずれも不受胎に終わり、4周期目にようやくステイゴールドへ相手が替わった。もしあの交配が成功していたら、オルフェーヴルという馬はこの世に存在しなかったかもしれない。

全兄のドリームジャーニーもまた、宝塚記念や有馬記念を制したGI3勝馬であり、種牡馬としても後継を残している。同じ父母から生まれた兄弟が、ともに大舞台を沸かせた。

社台スタリオンステーションで、父になる

引退後、オルフェーヴルは社台スタリオンステーションで種牡馬となった。

初年度産駒からラッキーライラック、エポカドーロといったGI馬が出て、種牡馬としての滑り出しは早かった。そして2023年、ウシュバテソーロがドバイワールドカップを制する。

父が二度、あと一完歩のところで首を横に振った海の向こう。息子は、別の砂の上で、しっかりと駆け抜けた。

受け継がれたもの

オルフェーヴルは、勝つべきところで静かに勝つ馬ではなかった。

皐月賞では震災の年に不安を振り切り、ダービーでは不良馬場と接触を越えた。菊花賞では親子二代の三冠という歴史を作り、有馬記念では雪の中で四冠目を戴いた。阪神大賞典では逸走という異常事態から怪物じみた末脚で盛り返し、天皇賞春では生涯最低着順に沈んだ。宝塚記念でファンの声に応えて復活し、二度の凱旋門賞では、どちらもあと一完歩のところで自分自身の気性に負けた。

そのすべてが、栗毛の馬体ひとつに同居していた。

金細工師という名を持つ馬は、結局、ヨーロッパで金色のトロフィーを手にすることはなかった。けれど、父が届かなかった海の向こうへ、産駒のウシュバテソーロが別の舞台で駆け出していく。

二度、首を横に振ったあの直線は、まだこの馬の物語の中で終わっていない。

参考資料・画像クレジット

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